基調講演
食道、胃、十二指腸を含む上部消化管疾患の有病率や性状は、この半世紀の間に大きく変化し、それに合わせて治療法も大きく変わってきた。50年前には下水道や水洗トイレの普及がまだ不十分で、生活の場の衛生環境も今ほど良くはなかった。このため食中毒のような病原細菌が経口的に消化管に侵入し感染症を引き起こす疾患の有病率が高かった。ヘリコバクター・ピロリも経口感染する菌で、感染が成立すると胃粘膜上に何10年にもわたって持続感染し胃粘膜に慢性の炎症を引き起こす。感染者は胃粘膜の炎症のために胃潰瘍を発症することが多く、このころ日本では潰瘍の有病率が高かった。潰瘍の治療にはアルミニウムゲルなどの胃酸中和薬や胃酸分泌抑制を目指して抗コリン薬が使用されていたが、難治性潰瘍や出血性潰瘍のために手術治療が必要な患者は少なくなかった。1980年代に入るとヒスタミンH2受容体拮抗薬(H2ブロッカー)が開発され、胃酸分泌抑制力が強力となったため手術治療が必要な潰瘍患者は激減したが、潰瘍治癒後も維持療法が必要で維持療法を中止した後に潰瘍が再発することも多かった。
1980年ごろから衛生環境の改善や除菌治療の普及に伴ってヘリコバクター・ピロリ感染者が減少しはじめた。ヘリコバクター・ピロリ感染陰性者は胃潰瘍や十二指腸潰瘍の発症リスクは低いが、胃粘膜に傷害がなく胃酸分泌能が高いため、高濃度の胃酸が食道内に逆流し逆流性食道炎を発症するリスクが高く、実際1990年代になると逆流性食道炎の有病率が急増した。H2ブロッカーの胃酸分泌抑制力では逆流性食道炎に対する効果は不十分で、1990年代の初めにプロトンポンプ阻害薬(PPI)が開発された。PPIはその強力な胃酸分泌抑制力によって逆流性食道炎にも潰瘍にも高い有効性を示すとともに、ヘリコバクター・ピロリの除菌治療に用いても有効で潰瘍の再発リスクを大きく低下させた。PPIは有効性が高く、副作用も少ない薬剤であり、現在世界中で最も使用されている薬剤の一つとなっている。ただ、ヘリコバクター・ピロリ感染者がさらに少なくなり、高い胃酸分泌能を維持した高齢者が増えてくると逆流性食道炎の一部の患者ではPPIを用いても充分な治療効果が得られない患者もみられるようになり、2年前から胃酸分泌抑制力がさらに強力なカリウムイオン競合型アシッドブロッカー(P-CAB)の使用が始まっている。PPIの胃酸分泌抑制力はP-CABには劣るが安全性情報が充実しており、一般的な酸関連疾患である胃・十二指腸潰瘍や患者数の増加が著しい逆流性食道炎患者の治療の主要選択薬として広く使用され続けられるだろうと考えられる。
戻る